●この2、3年の岩永さんの演奏を聴いてきて、ずっと思っていたことがある。今回名古屋でのコンサートに足を運んでみて、その思いは確信に変わった。その思いというのは、岩永善信という演奏家、芸術家が「新しい境地」に入った、ということだ。
もちろん、彼の音楽は、若い頃からすでに完成されていた。バックハウスの若いときの演奏がすでに素晴らしいように。だが、芸術には、天賦の才をもった人間が常人ならざる努力をした末にはじめて辿りつくことのできる境地というのがある。そこからどのような景色が見えるのかは、私のような凡人には窺い知れない。それでも、そのような境地に辿りついた人から溢れ出る音楽だけが放つ〈この世のものとは思えぬ輝き〉を認めることはできる。今回のコンサートでのバッハはその好個の例だ。バックハウスもグールドもリヒテルもいない現在、これほどのバッハ演奏を生で聴くことは、ギターのコンサートでなくても難しいだろう。ガルッピとそれに続くバッハの演奏が終わった時点で、目に涙が溢れてくるのを抑えることはできなかった。
後半の白眉はやはり組曲〈スペインの歌〉。スペインものを弾く岩永さんは、まるで水を得た魚のよう。縦横無尽に繰り広げられる超絶技巧は、ギターによる一大スペクタクル。盛大な拍手の後に、「粉屋の踊り」(ファリャ)と「熊蜂」(プジョール)、「白鳥」(サン=サーンス)がアンコールとして弾かれた。演奏会場を後にしてからも、最高の音楽に触れることができた幸せがいつまでも心を満たしてくれていた。
甲田純生
もちろん、彼の音楽は、若い頃からすでに完成されていた。バックハウスの若いときの演奏がすでに素晴らしいように。だが、芸術には、天賦の才をもった人間が常人ならざる努力をした末にはじめて辿りつくことのできる境地というのがある。そこからどのような景色が見えるのかは、私のような凡人には窺い知れない。それでも、そのような境地に辿りついた人から溢れ出る音楽だけが放つ〈この世のものとは思えぬ輝き〉を認めることはできる。今回のコンサートでのバッハはその好個の例だ。バックハウスもグールドもリヒテルもいない現在、これほどのバッハ演奏を生で聴くことは、ギターのコンサートでなくても難しいだろう。ガルッピとそれに続くバッハの演奏が終わった時点で、目に涙が溢れてくるのを抑えることはできなかった。
後半の白眉はやはり組曲〈スペインの歌〉。スペインものを弾く岩永さんは、まるで水を得た魚のよう。縦横無尽に繰り広げられる超絶技巧は、ギターによる一大スペクタクル。盛大な拍手の後に、「粉屋の踊り」(ファリャ)と「熊蜂」(プジョール)、「白鳥」(サン=サーンス)がアンコールとして弾かれた。演奏会場を後にしてからも、最高の音楽に触れることができた幸せがいつまでも心を満たしてくれていた。
甲田純生